平成25年度 第2回地域再発見講座 大三地区

今回探訪した津市白山町二本木の向居地区は、古代の古墳群や遺跡が確認されており、奈良時代には聖武天皇の河口頓宮時の御遊猟地としての「和遅野」があり、また津藩倉跡など時代ごとに重要な地域として存在してきました。また、丸山行者や寛政一揆の池田佐助修政の池田家古墓地も探訪しました。

講座概要

探訪場所

三重県津市白山町二本木 向居地区 (地図末尾

  • 岩井戸(いわいど)古墳
  • 和遅野(わちの)遺跡
  • 市ヶ瀬(いちがせ)藩倉跡
  • 丸山行者
  • 池田家古墓地
開催日時
平成25年6月19日(水)9:30 ~ 12:00
主   催
白山公民館
講   師
白山道しるべの会

探訪場所の概要

向居山出南(むかいやまでみなみ)公民館(集合場所)
向居山出南公民館

向居山出南公民館

6月19日(水)9:30 向居山出公南民館に集合し、本日の行程の概略説明が筧白山公民館長からされた後、公民館から100mほど西の竹林にある「岩井戸古墳跡」に向いました。

岩井戸古墳跡

岩井戸古墳跡では、

津市白山町二本木と川口の境を流れる雲出川に架かる県道の「広瀬橋」北詰より東側、坂道を登って北折する丘陵の険崖に沿って円墳が三基(1~3号墳)、その北方に一基(5号墳)、県道を挟んでもう一基(4号墳)が確認されています。
4号墳の発掘調査により耳環(みみわ)、玉類、須恵器の蓋坏(すえきのふたつき)、脚付坏、広口坩、両耳輪付提瓶(ていへい)などが出土しています。
岩井戸古墳跡は古墳群を成しており、今回2ヶ所を見学しました。


岩井戸古墳跡-1

岩井戸古墳跡-1

岩井戸古墳跡 見学1ヶ所目

この古墳は、直径5~6mくらいで、1m弱の高まりが竹林の中にあるだけで説明を受けなければ古墳跡と気づかないだろう。
続いて、檜の林の中の道を歩いて2ヶ所目の「岩井戸古墳」に向かう。


岩井戸古墳跡-2

岩井戸古墳跡-2

岩井戸古墳跡 見学2ヶ所目

こちらの古墳の方が規模が大きく、古墳跡とはっきり分かるものだった。吉村利男先生の説明では、「羨道(せんどう、えんどう)を持った石室構造の立派な古墳だったと思われる」とのことだった。

次は、林業研究所の林の間の道を歩いて、和遅野(わちの)の団地の外周道路を経て「市川原」にあったという藤堂藩の「一ヶ瀬藩倉跡」に向かう。

羨道
えんどう、またはせんどう
横穴式墳墓の入り口から玄室(棺を納めてある室)に至るまでの道。墓道。
和遅野遺跡

三重県林業研究所(津市白山町二本木3769−1)の前方に広がる原野であったとされる和遅野の地名は、聖武天皇が天平12年(740)に藤原広嗣の乱を避け、白山町川口の頓宮(参照:聖武天皇の河口頓宮跡)に10日間滞在し、和遅野で狩猟されたことが「続日本紀」に見られます。

和遅野は、縄文、弥生、古墳の三期にまたがる複合遺跡であることが調査で明らかになっています。昭和49年(1974)7月の調査では竪穴式住居が確認され、その中から弥生式土器、石斧など多数の出土品があり、特に須恵器片、土師器片とともに勾玉(まがたま:古代の装身具の一種)、管玉(くだたま:古代の装身具の一種)、耳環、石庖丁などが発見されました。また、石鏃(せきぞく:いしのやじり)が多く出土することで知られています。
しかし、この当たり一帯は江戸期より開墾、開発が進み、古墳群の破壊も著しいが、丘陵地一帯はなお、この地域最大の遺跡であることに代わりはないようです。

市ヶ瀬藩倉跡

今回の探訪地の南を流れる雲出川は、舟運も盛んでいろいろな物資を運んでおり、上りでは酒・肥料・干し魚・塩などの生活物資を、下りでは主として年貢米運んだようです。
津藩では、大庄屋が年貢米をまとめて下川口の切戸の砂浜からその積み出しを行っており、このため年貢米を収納する藩倉が和遅野原野川沿い、今日畑になっているあたりに建っていました。これが、市ヶ瀬藩倉です。
五棟からなり、倉庫番が居住し、運上米の納期ともなれば奥一志から川舟で運ばれてきた年貢米がいったんこの倉庫に納められ、必要に応じて津城下へ運び出される仕組みになっていました。白山地域の津領の米はもちろん、時には青山峠を越えて運び込まれた伊賀の米もここへ収納されることもあったようです。


今は個人所有の畑になっているところに倉の井戸の跡のみ囲われて石が積まれていました。ほかの倉跡は痕跡なく、きれいな畑になっています。畑の中央の道を南東の雲出川に向かって歩き、左手の栗の木のところから下りると石畳状となった船着場の跡らしき個所があります。意外と狭い感がしましたが、まあ米俵を担いで歩くことは可能と思われました。
ここから、住宅地の中をしばらく歩き、丸山に向かいました。

丸山行者
丸山行者-1

丸山行者-1

やや急な石段を登って山頂に着くとそこは林の開けたところで涼しくてよかったが、蚊が多くて困りました。
向かって左から「役小角(えんのおづの)の祠」、庚申信仰の「青面金剛像の祠」が並んでいます。少し離れて「子安地蔵」を祀った祠があります。

丸山行者-2

丸山行者-2

また、石段の途中から左に入ると「西国三十三ヶ所の壱番那智山」、「如意輪観音」、「二番紀三井寺十一面観音」、「参番粉河寺千手千眼観音」、「四番槇尾山千手千眼観音」、「五番葛井寺十一面千手千眼観音」、「六番壺阪寺住一面千手観音」と同名の石造観音像が1番から6番まで祀られていますが、7番以降は見当たりません。


丸山行者講は、

吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)を本山とする金峯山(きんぷせん)修験本宗に属しています。その発祥の状況は不明ですが、向居地区を中心に10数件で構成しています。
例祭は毎年4月中旬に開催され、講者は夫婦揃って丸山に上り、般若心経を読誦し、酒食を供し談笑して過ごします。今日では、数軒で細々と伝承されています。

現在の丸山石造物は、役小角(えんのおづの)像、庚申塚(こうしんづか)、子安地蔵のほか奉納石仏が祀られています。
修験道
修行し、密教的修法によって呪力を体得しようとする法、またはそれを体得した山伏に対する信仰で役小角(えんのおづの)が開祖。
道場
(奈良県)葛城山、吉野山、大峰山  (和歌山県)熊野山  (四国)石鎚山  (九州)英彦山  (東北)出羽三山  (長野県)戸隠山  (石川県)白山  (関東)権現山、富士山   など
起源
室町時代からの中世期宗教の修行に由来
  • 天台宗 京都聖護院に本拠を置く本山派(法親王が入室~~菊紋使用)
  • 真言宗 京都醍醐三法院に本拠を置く当山派
現在
  • 真言宗醍醐派(三法院)、金峯山修験本宗(金峯山寺)
  • 修験宗(聖護院)
    の2派が中心。
池田家古墓地
池田家古墓地

池田家古墓地

丸山を下りて南に向かい池田家の古墓地に向かいました。ここでは、池田卓三氏と吉村利男先生の説明を受けました。
七代目の弟八郎兵衛清次と十一代目の三弟で寛政一揆の首謀者とされ永牢の刑を受け牢死した大庄屋池田佐助修政の墓が見られました。
山出南公民館に戻ったのはちょうど12時ごろでした。


池田家とは

池田家の初代は助太夫光成と言い、先祖は伊勢の国司大名北畠一族である北畠顕能(きたばたけ あきよし)の三男俊通が称した木造(こづくり)家の一族である。
先代甚次郎光康のとき木造家が滅亡して小倭に亡命し、光成のとき大村に居を定めて池田家を号しました。

その後、寛政3年(1791)に大庄屋に就任した佐助修政は百姓一揆に加担し欠所になったと伝えられているが、これが「寛政一揆」のことで「佐助殿役中わずか六年半之出勤也」とあるのはこの意味である。

平成24年度 第2回わが町発見講座 大三地区

  第2回わが町発見講座は、津市白山町二本木の大三地区を探訪しました。初瀬街道が通る閑城(かんじょう)地区は、地域の要所で代官所や詰所があり、「大村キリシタン抑留所跡」や「石造道標」など多くの歴史を訪ねることができます。
  また 、近くには円空作の『大日如来坐像』を祀った「浜城観音堂」や先の悲惨な戦争での犠牲者を悼む「平和の礎」も訪ねました。

講座概要

探訪場所
三重県津市白山町二本木(大三地区)(地図末尾
  • 大村キリシタン抑留所跡
  • 初瀬街道  閑城地区界隈(閑城橋、石造道標)
  • 浜城観音堂の円空仏
  • 平和の礎
開催日時
平成24年6月20日(水)9:30 ~ 12:00
主   催
白山公民館
講   師
白山道しるべの会

探訪場所の概要

大村キリシタン抑留所跡
大村キリシタン抑留所跡の画像

  藤堂家第10代藤堂高兌(とうどう たかわさ、元久居藩主でのちの文化3年(1806年)津藩主になる)の頃、大村閑城に代官所を置く。池田家の跡と言われるが、寛政一揆(1796年)の取締りに「大村詰」とあり、既に類似の施設はあったようである。
  明治2年(1869)12月、肥前国彼杵郡浦上村(現長崎市)のキリシタン約3,000人が全国に配流(流罪)となった。江戸時代以降、キリスト教は禁止されていたわけで、津藩も155人預かった。そのうち75人が二本木の旧代官所跡に収容された。その時の様子を記した書物によると、「家は大きくて広い、別段御用があるわけで無し、食物は十分支給されるし、何一つ不自由はなかった」と記されている。
明治6年2月、キリスト教の信仰が自由になり、二本木に収容された浦上村の人たちも山田を経て、5月には故郷に帰った。

初瀬街道(閑城地区界隈)
"閑城地区に残る石造道標の画像

  初瀬街道は、垣内宿がよく話題になり、街道は中ノ村、岡、閑城(かんじょう)、亀が広から一志へと繋がるが、今回は北閑城地区を散策した。
  左の写真に、裏面(おやまとの内  大村)、左側(宝永二乙酉歳  五月日)、正面(上  いせみち)、右側(下  山中道)と刻まれている。坂道に据えてあったので、坂を上る方向を行けば伊勢神宮へ、坂を下れば川口(山中)方面へと言っていると思われるが、この道標は最近まで付近の空き地に転がっていた。近所の人たちが、きれいに掃除して旧郵便局の正面に据えつけた。

浜城観音堂の大日如来像
浜城観音堂では円空作「大日如来坐像」を拝観の画像

  旧白山町教育委員会は、二本木浜城地区の観音堂に安置されている大日如来像を江戸時代前期で円空作と確認し、平成16年12月2日文化財に指定した(現津市指定文化財)。
円空作-大日如来坐像の画像  仏像は、表面がなめらかで丁寧な作りが特徴で初期の作品とみられ、台座部分を含め高さ33.3㎝、幅18.5㎝である。円空が出家し仏像を本格的に彫り始めた30歳代、寛文4年(1664)ごろの作とみられる。観音堂は浜城区が所有・管理しており、地区民の集会所として利用している。

平和の礎
平和の礎の画像

「昭和20年6月26日、白山町上空でB29に体当たり」

  朝から中勢地方には、空襲警報が鳴り響いていた。伊勢方面から西北に向かってB29の大編隊が進行中、笠取山方面から2機の日本軍戦闘機「飛燕」が旋回しながら飛んで来て、白山町の上空で飛燕の1機がB29の大編隊に真正面から体当たりした。
すごい衝撃音の後、飛燕はパラシュウートが開き、機体は燃えながらキリモミ状態で大三駅の北側2キロの円内にバラバラに落下した。搭乗していた第56戦隊所属の中川裕少尉は機外に放り出されたが、機体に取り付けてあったパラシュートが自動的に開いた。風に飛ばされながら、久居の真光寺の松の木に引っ掛かったが降下中射撃され死亡。
B29には11人が搭乗していたが、10人死亡、1人がパラシュートで脱出したが捕虜になり、その後処刑された。B29のエンジン部分は、東青山駅近くの惣谷池に落下した。
  その後、23回忌の昭和43年に落下した大三地区に「平和の礎」が建てられ、少尉の母親(広島在住)も遺族として参列された。